ペルセポリス – 炎に包まれた「失われた都市」の壮大な歴史
古代ペルシャの栄光を今に伝える「王の都」ペルセポリスは、その壮大な遺跡と劇的な滅亡によって、世界で最も魅力的な失われた都市のひとつとして知られています。紀元前6世紀に建設され、アレキサンダー大王によって焼き尽くされるまで、ペルセポリスはアケメネス朝ペルシャ帝国の儀式的な首都として栄華を極めました。今日、イランのシラーズ近郊に残る遺跡は、かつての栄光の一端を私たちに見せてくれます。
「神々の都」の誕生
ペルセポリスの名は、ギリシャ語で「ペルシャの都市」を意味します。しかし、ペルシャ人自身はこの都市を「パルサ」(Parsa)または「タフテ・ジャムシード」(Takht-e Jamshid、ジャムシードの玉座)と呼んでいました。紀元前518年頃、ダレイオス1世(ダレイオス大王)によって建設が始まったこの都市は、単なる行政の中心地ではなく、帝国の威信と権力を象徴する儀式の場として設計されました。
建設には50年以上の歳月が費やされ、その後もクセルクセス1世やアルタクセルクセス1世といった後継者たちによって拡張が続けられました。ペルセポリスは、春分の日に行われる「ノウルーズ」(ペルシャの新年)の祝祭を中心に、帝国内の諸民族が集まり、王に貢物を捧げる場として機能していました。
建築の驚異と芸術の粋

ペルセポリスの建築は、当時の世界の様々な文化の影響を受けながらも、独自の様式を確立していました。遺跡の中で最も印象的なのは以下の建造物です:
– アパダーナ宮殿: 72本の柱を持つ巨大な謁見の間で、各柱は20メートルの高さがありました。壁面のレリーフには、23の属国から貢物を持ってくる使者たちの行列が精巧に彫られています。
– 百柱の間: クセルクセス1世によって建てられた、100本の柱を持つ広大な広間
– 門の間: 「万国の門」とも呼ばれ、巨大な有翼の雄牛の像が守る印象的な入口
– タチャラ宮殿: ダレイオス1世の私的な宮殿で、「冬の宮殿」とも呼ばれる
これらの建造物は、当時の最高の職人技を示しています。石工たちは、巨大な石灰岩のブロックを切り出し、それらを金属製の留め具を使わずに完璧に組み合わせました。壁面には、精巧なレリーフが彫られ、王の威厳、帝国の多様性、そしてゾロアスター教の宗教的モチーフが表現されています。
炎に包まれた都市 – アレキサンダー大王による破壊
ペルセポリスの歴史は、紀元前330年に劇的な転換を迎えます。マケドニアのアレキサンダー大王は、ペルシャ帝国を征服する過程で、この都市を占領しました。当初、アレキサンダーはこの壮大な都市の美しさに感銘を受け、保存する意図を持っていたとされています。
しかし、歴史家プルタルコスによれば、ある宴会の席で、アテナイの高級娼婦タイスの提案により、アレキサンダーはペルセポリスに火を放つことを決意しました。これは、かつてクセルクセス1世がアテネを焼き払ったことへの報復だとされています。アレキサンダーと彼の部下たちは松明を手に宮殿に火を放ち、数時間のうちに、200年近くにわたって建設されてきた壮大な都市は炎に包まれました。
考古学的証拠は、この劇的な物語を裏付けています。発掘された遺跡からは、激しい火災の痕跡が見つかっており、アパダーナ宮殿の屋根を支えていた巨大な杉の柱は完全に燃え尽き、石灰岩の床には溶けた金属や焼けた跡が残されています。
忘却と再発見
ペルセポリスの破壊後、この都市は徐々に忘れられていきました。砂と土に埋もれ、地元の人々の間では「ジン(精霊)の四十本の柱」と呼ばれる神秘的な場所となりました。西洋世界に再び知られるようになったのは、17世紀のヨーロッパ人旅行者たちの記録によってでした。
本格的な考古学的発掘は、1931年にシカゴ大学東洋研究所のエルンスト・ヘルツフェルトによって始められ、1939年まで続きました。これらの発掘調査により、かつての失われた都市の真の姿が明らかになりました。1979年には、ユネスコの世界文化遺産に登録され、現在は年間数十万人の観光客が訪れる重要な考古学的遺跡となっています。
ペルセポリスは今日、古代ペルシャの栄光と、人間の創造性と破壊性の両方を物語る象徴として立ち続けています。その壮大な柱と精巧なレリーフは、2500年前の失われた都市の記憶を現代に伝えています。
アケメネス朝ペルシャの至宝 – 古代遺跡に刻まれた栄華の証

アケメネス朝ペルシャ帝国が残した「王たちの都」ペルセポリスは、現代のイラン南西部に位置する壮麗な遺跡として今日まで残されています。紀元前6世紀から紀元前4世紀にかけて栄えたこの都市は、古代世界最大の帝国の首都として、その建築様式と芸術性において比類なき存在でした。
「王たちの都」の誕生
ペルセポリスの建設は紀元前518年頃、ダレイオス1世の命により始まりました。ギリシャ語で「ペルシャ人の都市」を意味するペルセポリスは、ペルシャ語では「タフテ・ジャムシード(ジャムシードの玉座)」と呼ばれ、神話上の王の名を冠しています。
当時のペルシャ帝国は地中海からインダス川流域まで、エジプトから中央アジアまでを支配する世界最大の帝国でした。ペルセポリスはその権威と栄光を象徴する儀式的な首都として機能し、特に春分の日に行われる「ノウルーズ(ペルシャの新年祭)」では、帝国各地から集まった代表者たちが王に貢物を捧げる壮大な儀式が執り行われていました。
驚異の建築技術と芸術性
ペルセポリスの遺跡で最も印象的なのは、その建築技術と芸術性の高さです。以下の特徴が古代遺跡としての価値を高めています:
– アパダーナ宮殿: 72本の柱を持つ巨大な謁見の間で、各柱は20メートルの高さを誇りました
– 百柱の間: 100本の柱を持つ広大な空間で、軍事会議や重要な政務が行われた場所
– 浮き彫りの装飾: 壁面に施された精緻な浮き彫りは、28の民族の代表者が貢物を携えて行進する様子を描いています
– 門の彫刻: 怪獣や神話的生物の彫刻が施された「全ての国の門」は、帝国の多様性と力を象徴していました
特筆すべきは、これらの建造物が当時としては画期的な耐震設計を採用していたことです。柱と柱の間に金属製の接続部を用いることで、地震の多い地域でも建物の安定性を確保していました。この技術は、現代の建築家たちをも驚かせるほど先進的なものでした。
失われた都市の悲劇
ペルセポリスの栄華は、アレクサンドロス大王による征服によって突如として終わりを告げました。紀元前330年、マケドニアの若き征服者はペルセポリスを占領し、数ヶ月後に宮殿に火を放ちました。
この破壊行為については様々な説があります:
1. 復讐説: ギリシャの神殿を破壊したクセルクセス1世への報復
2. 戦略説: ペルシャ帝国の象徴的な中心を破壊することで抵抗意志を挫く目的
3. 酩酊説: 酒宴の席で愛妾タイスの扇動により衝動的に行った行為
いずれにせよ、この火災によって「失われた都市」ペルセポリスは廃墟と化し、砂の下に埋もれていきました。かつての栄華を示す遺跡は、18世紀になるまで西洋世界にはほとんど知られることがありませんでした。
発掘と再発見
ペルセポリスの本格的な発掘は1930年代にシカゴ大学東洋学研究所のエルンスト・ヘルツフェルト教授によって始められました。10年以上に渡る発掘調査により、王宮の遺構や数千点の粘土板文書(エラム語で記された行政記録)が発見されました。
これらの発見は古代ペルシャの社会構造や経済システムに関する貴重な情報をもたらしました。特に注目すべきは、労働者への支払い記録が残されていたことで、当時の社会が想像以上に組織化され、公正な労働対価システムを持っていたことが明らかになりました。女性労働者も男性と同等の賃金を受け取っていた記録も発見され、古代社会における性別役割の再考を促しました。

現在、ペルセポリスはユネスコ世界遺産に登録され、イラン最大の観光地の一つとなっています。毎年、世界中から数十万人の観光客がこの「幻の都市」を訪れ、2500年前の帝国の栄華に思いを馳せています。
アレクサンドロス大王の怒り – 幻の都市を焼き尽くした復讐の真実
アケメネス朝ペルシャ帝国の栄華を象徴したペルセポリスは、壮大な建築と豊かな文化が花開いた都市でしたが、その終焉は突然かつ劇的なものでした。紀元前330年、マケドニア王アレクサンドロス3世(大王)の軍勢によって炎上し、一夜にして灰燼と化したのです。この出来事は単なる軍事行動を超え、古代世界の政治的転換点となりました。
復讐の炎 – ペルセポリスが滅びた夜
アレクサンドロスがペルセポリスを焼き払った背景には、複雑な政治的・個人的動機が絡み合っていました。紀元前334年に小アジアに侵攻して以来、アレクサンドロスはペルシャ帝国の各地を次々と征服していきました。エジプト、メソポタミア地方を経て、ついに帝国の心臓部であるペルセポリスに到達したのです。
歴史家プルタルコスによれば、アレクサンドロスは当初、この壮麗な都市を保存する意向を持っていたとされています。しかし、ある宴会の席で、アテナイ出身の高級娼婦タイスの提案により、その決断は一変しました。タイスは「ギリシャの神殿を焼き払ったペルシャ人への復讐として、ペルセポリスに火を放つべきだ」と進言したのです。
酒に酔ったアレクサンドロスはこの提案に同意し、自らも松明を手に取って王宮に火を放ちました。古代ギリシャの歴史家ディオドロス・シクロスは、この出来事を次のように記しています:
「アレクサンドロスは宴会から立ち上がり、酔った仲間たちと共に松明を手に取って行進した。タイスが先頭に立ち、彼女に続いて王と他の者たちが歌いながら宮殿に向かった。そして彼らはペルシャ人の傲慢さへの復讐として、かの壮麗な建物に火を放ったのである。」
政治的計算 – 復讐の背後にあった戦略
しかし、近年の歴史研究では、この行為は単なる酩酊状態での衝動的な決断ではなく、周到に計算された政治的戦略だったという見方が強まっています。
アレクサンドロスがペルセポリスを破壊した真の理由として、以下の点が指摘されています:
– 象徴的意味:ペルセポリスはアケメネス朝の権力と威信の象徴であり、これを破壊することでペルシャ帝国の終焉を世界に示す効果があった
– 実利的理由:反乱の拠点となる可能性を排除し、ペルシャ人の抵抗意志を挫く軍事的意義があった
– 政治的転換:「ペルシャの征服者」から「アジアの支配者」へと自らの立場を変えるための儀式的行為だった
考古学的証拠も、この計画性を裏付けています。発掘調査によれば、ペルセポリスの宝物庫は火災前に徹底的に略奪されており、貴重な財宝や文書は事前に持ち出されていたことがわかっています。これは、単なる酔った勢いでの破壊行為ではなく、準備された行動だったことを示唆しています。
失われた文化遺産 – 炎上がもたらした損失
ペルセポリスの炎上によって失われた文化的・歴史的価値は計り知れません。特に重大な損失として挙げられるのが:

1. アケメネス朝の宮廷文書館:古代ペルシャの行政・外交・文化に関する膨大な記録が焼失
2. 芸術作品:金細工、彫刻、壁画など、当時の最高水準の芸術品が破壊された
3. 建築遺産:「百柱の間」と呼ばれる巨大な謁見の間をはじめ、独自の建築様式を持つ宮殿群が焼失
考古学者イーバル・クーティスは「ペルセポリスの破壊は、古代世界における最大級の文化財破壊行為の一つ」と評しています。皮肉なことに、この破壊行為によって都市は廃墟となり、砂に埋もれることで後世に比較的良好な状態で遺跡が残されることになりました。
火災の痕跡は今日でも遺跡の随所に見られます。アパダーナ(大謁見の間)の柱や壁面には、激しい熱で変色した跡が残されており、かつての悲劇を今に伝えています。
アレクサンドロスによるペルセポリスの破壊は、単なる軍事行動を超えた象徴的な出来事でした。それは東西文明の衝突と融合という、その後の歴史を形作る転換点となったのです。失われた都市ペルセポリスの灰の中から、新たな時代のヘレニズム世界が生まれることになりました。
砂に埋もれた奇跡 – 19世紀の発掘で蘇った古代ペルシャの宮殿群
19世紀初頭まで、ペルセポリスの壮大な宮殿群はほとんどが砂に埋もれ、その全貌は謎に包まれていました。当時の西洋人にとって、この失われた都市は伝説上の場所に過ぎず、実際にどのような姿をしていたのかは想像の域を出ませんでした。しかし、勇敢な探検家たちの情熱と考古学の発展により、この眠れる古代遺跡は徐々に姿を現し始めたのです。
先駆者たちの足跡
ペルセポリスの本格的な発掘調査は、1800年代に入ってから始まりました。最初の重要な調査を行ったのは、ドイツの考古学者エルンスト・ヘルツフェルトでした。彼は1931年から1934年にかけて、シカゴ大学東洋研究所の支援を受けて発掘を実施。それまで部分的にしか見えていなかった宮殿群の全体像を明らかにし、世界に衝撃を与えました。
しかし、ヘルツフェルト以前にも、この幻の都市に魅了された探検家たちがいました。
- 1621年:イタリア人旅行家ピエトロ・デラ・ヴァレが初めて西洋人としてペルセポリスを訪れ、楔形文字のサンプルを持ち帰る
- 1704年:フランス人旅行家ジャン・シャルダンが詳細なスケッチを残す
- 1765年:ドイツ人カルステン・ニーブールが精密な測量図を作成
- 1840年代:フランス人考古学者ウジェーヌ・フランダンとパスカル・コストが遺跡の詳細な図面を作成
これらの先駆者たちの努力により、砂に埋もれていたペルセポリスの姿が少しずつ明らかになっていったのです。
発掘で明らかになった驚異の建築
19世紀から20世紀にかけての発掘調査によって、ペルセポリスの宮殿群がいかに壮大で精緻な建築物であったかが明らかになりました。発掘された主な建造物には以下のようなものがあります:
| 建造物 | 特徴 | 発見された時期 |
|---|---|---|
| アパダーナ宮殿 | 72本の柱を持つ巨大な謁見の間、精巧な浮き彫りが特徴 | 1930年代初頭 |
| 百柱の間 | クセルクセス1世が建設した100本の柱を持つ広大な宮殿 | 1940年代 |
| タチャラ宮殿 | ダレイオス1世の私的宮殿、冬の住まいとされる | 1930年代後半 |
| 万国の門 | 有翼の雄牛像が守る壮大な入口 | 1920年代後半 |
発掘調査によって、これらの建物が単なる宮殿ではなく、精密に計画された都市計画の一部であったことも判明しました。建物の配置、水路システム、排水設備など、当時としては非常に高度な都市設計が施されていたのです。
驚きの発見 – 粘土板文書と「王の財宝」
発掘調査の中で最も重要な発見の一つが、1933年に発見された粘土板文書群です。これらはエラム語とアラム語で書かれた行政文書で、ペルセポリスが単なる儀式的な都市ではなく、帝国の行政中心地でもあったことを示しています。これらの文書から、古代ペルシャの税制度、労働者への支払い、食料配給システムなど、当時の社会経済構造が明らかになりました。
また、1930年代の発掘では、「王の財宝」と呼ばれる金銀の装飾品や宝石類も発見されました。これらは、アレクサンドロス大王の侵攻時に隠されたものと考えられています。中でも、純金で作られた飲料用の器や、ラピスラズリやトルコ石で装飾された宝飾品は、当時のペルシャ帝国の富と技術力を物語っています。

発掘調査によって明らかになったのは、ペルセポリスが単なる失われた都市ではなく、古代世界の芸術と建築の頂点を示す場所であったという事実です。その精緻な石彫刻、巨大な柱、緻密な装飾は、2500年以上前の技術とは思えないほどの完成度を誇っています。
このように、19世紀から20世紀にかけての発掘調査によって、砂に埋もれていたペルセポリスは再び息を吹き返し、古代ペルシャ文明の栄光を現代に伝えるようになったのです。今日、私たちがこの古代遺跡の壮大さを知ることができるのは、数世代にわたる考古学者たちの情熱と献身の賜物なのです。
謎と伝説に彩られたペルセポリス – 失われた技術と未解明の建築の秘密
驚異の石工技術 – 現代でも再現困難な精密さ
ペルセポリスの遺跡を訪れた者が最初に驚嘆するのは、その石工技術の精密さです。2500年以上前に建設されたにもかかわらず、巨大な石材同士が驚くほど緻密に接合されており、その隙間にはわずか0.5mm程度しかないと言われています。現代の最新技術を用いても、このような精度で巨石を加工し接合することは容易ではありません。
特に注目すべきは、ペルセポリスの「アパダーナ宮殿」の柱です。高さ20メートル近くある柱は、複数の石材を組み合わせて作られていますが、その接合部分は肉眼ではほとんど判別できないほど精巧です。考古学者たちは、古代ペルシアの石工たちがどのような工具と技術を用いてこのような精密な加工を行ったのか、未だに完全には解明できていません。
失われた建築技術 – 耐震構造の秘密
ペルセポリスがある地域は地震活動が活発な場所に位置しているにもかかわらず、残された遺構は2500年もの間、数々の地震に耐えてきました。この驚異的な耐久性の秘密は、建築家たちが採用した独自の耐震技術にあると考えられています。
遺跡の調査から明らかになったのは、ペルセポリスの建築物には以下のような先進的な耐震対策が施されていたことです:
- 乾式工法:モルタルなどの接着剤を使わず、石材同士を精密に加工して組み合わせる技術
- 金属クランプ:石材同士を鉛や青銅製のクランプ(留め金)で連結する技術
- 基礎構造:地盤の揺れを吸収するための特殊な基礎構造
特に注目すべきは、石材同士を連結するために使用された金属クランプです。これらは「燕尾型」と呼ばれる独特の形状をしており、地震の揺れによって石材が動くのを効果的に防いでいました。この技術は後の文明にも影響を与え、古代ギリシャやローマの建築にも応用されています。
未解明の水利システム
ペルセポリスのもう一つの謎は、その高度な水利システムです。乾燥地帯に建設されたこの都市では、効率的な水の供給と排水が不可欠でした。考古学的調査により、ペルセポリスには複雑な地下水路網が張り巡らされていたことが判明しています。
この水利システムには以下のような特徴がありました:
| 構成要素 | 機能 | 現存状態 |
|---|---|---|
| 地下水路 | 都市全体への水の供給と排水 | 一部が発掘済み |
| 貯水池 | 雨水の収集と保存 | 遺構が確認されている |
| 浄水施設 | 水の浄化 | 存在が推測されるが未発見 |

特筆すべきは、これらの水路が単なる溝ではなく、精密に設計された傾斜を持ち、水の流れを制御できるようになっていたことです。さらに、一部の水路には水の流れを調整するための仕掛けがあったとされています。このような高度な水利技術は、当時のペルシア人の科学的知識と工学的能力の高さを示しています。
天文学的配置の謎
近年の研究により、ペルセポリスの建築物の配置には天文学的な意味があったのではないかという説が浮上しています。特に、春分の日には特定の建築物に太陽光が特殊な角度で差し込み、象徴的な光景を作り出すことが確認されています。
これは単なる偶然ではなく、古代ペルシア人が持っていた天文学的知識に基づいた意図的な設計だと考えられています。ゾロアスター教を信仰していた彼らにとって、太陽は特別な意味を持つ存在でした。都市の配置に天文学的要素を取り入れることで、宇宙の秩序と王権の神聖さを象徴的に表現していたのかもしれません。
ペルセポリスの遺跡は、今なお多くの謎を秘めています。精密な石工技術、先進的な耐震構造、複雑な水利システム、そして天文学的配置—これらはすべて、古代ペルシア文明の驚くべき知識と技術力を物語っています。考古学的調査が進むにつれて新たな発見が続いており、この「失われた都市」は私たちに古代文明の叡智を伝え続けています。現代の技術をもってしても再現が困難な建築の数々は、古代遺跡に魅了される人々を世界中から引き寄せ、幻の都市ペルセポリスの魅力は今後も色あせることはないでしょう。
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