カルタゴ帝国の栄光と悲劇:ローマに消し去られた海洋都市の実像
地中海の覇者として君臨し、ローマ帝国の最大の敵として名を刻んだカルタゴ。「デレンダ・エスト・カルタゴ(カルタゴは滅ぼされねばならない)」というローマの執念が示すように、完全に地上から消し去られた失われた都市の代表例です。今日、チュニジア共和国の首都チュニスの郊外に広がるその古代遺跡からは、かつての栄華と悲劇の痕跡が少しずつ明らかになっています。
海を支配した商業帝国の誕生
紀元前814年、フェニキア人の女王エリッサ(別名ディドー)によって創建されたとされるカルタゴは、「新しい都市」を意味するフェニキア語「カルト・ハダシュト」に由来します。地中海の戦略的位置に築かれたこの都市は、フェニキアの植民地として始まりましたが、やがて独立した強大な海洋商業帝国へと成長しました。
カルタゴ人は優れた航海技術を持ち、イベリア半島からアフリカ西岸、さらには大西洋へと航路を開拓。彼らの商船隊は金、銀、象牙、奴隷などを運び、地中海西部の貿易を独占していました。考古学的発掘からは、カルタゴの港が当時の工学技術の粋を集めた二重構造になっていたことが判明しています。外港は商船用、内港は軍艦用の円形ドックで、最大220隻の軍船を収容できる規模でした。
ローマとの百年にわたる死闘

カルタゴの繁栄は必然的にローマとの衝突を招きました。紀元前264年から紀元前146年にかけて行われた三度のポエニ戦争は、古代世界最大の国家間紛争でした。特に第二次ポエニ戦争では、天才軍人ハンニバルがアルプスを象とともに越えてイタリアに侵攻し、カンナエの戦いでローマ軍に壊滅的打撃を与えました。
しかし最終的にローマは第三次ポエニ戦争でカルタゴを完全に破壊します。紀元前146年、ローマ将軍スキピオ・アエミリアヌスの軍勢がカルタゴを包囲、17日間の市街戦の末、都市は陥落しました。
「塩を撒かれた」都市の真実
ローマはカルタゴに対して徹底的な破壊政策を実行しました。伝説によれば、ローマ軍は都市を焼き払った後、その地に塩を撒いて不毛の地にしたとされています。この「塩を撒く」という行為は象徴的な意味を持ち、カルタゴの完全な抹消を意図していました。
しかし、この「塩撒き」のエピソードは実は近代になって作られた伝説である可能性が高いとされています。古代の史料にはこの出来事の記録がなく、塩が貴重だった当時、大量の塩を無駄にすることは非現実的だったからです。
実際の考古学的証拠からは、カルタゴは確かに徹底的に破壊されましたが、その後ローマはこの地に「アフリカ・プロコンスラリス」という属州を設置し、紀元前44年にはユリウス・カエサルの命令でローマ人入植者によって「コロニア・ユリア・カルタゴ」として再建されています。
発掘が明かす幻の都市の実像
19世紀以降、カルタゴの遺跡は考古学者たちによって徐々に発掘されてきました。特に1970年代からユネスコの「カルタゴ国際保存キャンペーン」により本格的な調査が進み、都市の構造や日常生活の様子が明らかになってきています。
発掘された主な遺構には以下のものがあります:
- トフェット:子供の遺骨と供物が発見された宗教的聖域。カルタゴ人の神バアル・ハモンへの人身供犠の証拠とされる場所です。
- ビュルサの丘:都市の中心部で、行政機能を持つアクロポリスがあった場所。
- アントニヌスの浴場:ローマ時代に建設された大規模な公衆浴場。
- 軍港跡:カルタゴの海軍力を支えた円形の軍港の遺構。
これらの発掘調査により、カルタゴはローマに破壊される前、最盛期には70万人もの人口を擁する地中海最大級の都市であったことが確認されています。都市は整然とした格子状の道路網を持ち、高さ6階建てに達する集合住宅があり、高度な上下水道システムを備えていました。
今日、カルタゴの遺跡は1979年にユネスコ世界遺産に登録され、チュニジアの重要な観光資源となっています。しかし、発掘されたのは推定面積の約10%に過ぎず、まだ多くの謎が地下に眠っています。失われた都市カルタゴの全容解明は、現在も進行中の考古学的冒険なのです。
失われた都市カルタゴの発掘:考古学者たちが明らかにした驚異の都市計画
カルタゴの発掘調査は1世紀以上にわたり、考古学者たちが古代地中海最強の海洋都市国家の謎を解き明かす旅でした。現代チュニジアの首都チュニスの郊外に位置するこの「失われた都市」は、ローマによる徹底的な破壊にもかかわらず、その驚くべき都市設計と技術力の証拠を私たちに残しています。
都市計画の驚異:格子状の街路と複雑な下水道システム
19世紀後半から本格化した発掘調査により、カルタゴが当時としては極めて先進的な都市計画に基づいて建設されていたことが明らかになりました。フランスの考古学者オーギュスト・ボールトによって始められた初期の発掘は、整然と区画された格子状の街路パターンを発見しました。

特筆すべきは、紀元前4世紀頃に建設された複雑な下水道システムです。2010年代の調査では、総延長60キロメートル以上に及ぶ地下水路網が明らかになり、当時の人口約40万人の生活排水を効率的に処理していたことが判明しました。この下水システムは傾斜を利用して自然流下する設計で、定期的な洪水や汚水の逆流を防ぐ逆流防止弁の痕跡も発見されています。
現代の考古学者ハナ・フェンウィック博士は「カルタゴの下水システムは、同時代のローマやギリシャの都市と比較しても、はるかに高度な衛生工学の知識を示している」と評価しています。
二重の港:古代世界最大の人工港湾施設
カルタゴ発掘の最も印象的な発見の一つは、「コトン」と呼ばれる二重構造の人工港です。1970年代から80年代にかけて、イギリスとチュニジアの合同調査チームによって詳細に調査されたこの港湾施設は、当時の技術水準を考えると驚異的な土木工事の成果でした。
港は二つの部分から構成されていました:
1. 商業港 – 外側の円形港で、直径約325メートル。最大200隻の商船を収容可能
2. 軍港 – 内側の円形港で、直径約235メートル。220隻の軍艦用ドックと中央に円形の人工島
この人工島には海軍司令官の本部が置かれ、港全体を監視できるよう設計されていました。2018年の水中考古学調査では、この港の建設に使われた高度な防水コンクリート技術が明らかになりました。火山灰と石灰を混ぜた特殊な配合は、海水中でも硬化する性質を持ち、現代のポルトランドセメントに似た特性を持っていたのです。
トフェト:議論を呼ぶ儀式の場所
カルタゴ発掘の中で最も議論を呼んできたのが「トフェト」と呼ばれる宗教的聖域です。1921年に発見されたこの場所からは、約2万個の陶製の壺が出土し、その中には子供の焼かれた骨が含まれていました。
長らく、これらはカルタゴ人が行っていた子供の生贄(いけにえ)の証拠と考えられてきました。古代ローマの歴史家たちもカルタゴ人の「残忍な」儀式について記録しています。しかし、2010年代の最新の骨学的分析では、これらの多くが死産児や幼児死亡例であった可能性が指摘されています。
オックスフォード大学の考古学者ジョセフ・グリーン教授は「トフェトの発見は、古代の宗教的慣行と現代の道徳観の複雑な関係を示している。私たちは過去の文化を現代の価値観だけで判断すべきではない」と述べています。
日常生活の痕跡:住居区と市場
1990年代以降の発掘調査では、一般市民の日常生活に焦点が当てられるようになりました。「幻の都市」カルタゴの住宅地区からは、モザイク床や壁画、日用品などが多数発見されています。
特に注目すべきは「ハニバル地区」と名付けられた富裕層の住居エリアです。ここでは、中庭を中心に部屋が配置された典型的な地中海式住居が発掘されました。床には精巧な幾何学模様や海洋生物をモチーフとしたモザイクが施され、壁には鮮やかな彩色が残っていました。
また、市場エリアからは、エジプト、ギリシャ、イベリア半島、さらには遠くインドからもたらされた商品の痕跡が発見され、カルタゴが古代地中海貿易の中心地だったことを裏付けています。
2005年のUNESCO世界遺産委員会の報告書によれば、「カルタゴの遺跡は、古代地中海世界における多文化交流の重要性を示す比類なき証拠である」とされています。現在も続く発掘調査は、この「失われた都市」の全容解明に向けて、新たな発見を続けています。
幻の都市を彩った伝説:人身供犄と「トフェト」の真実
カルタゴといえば、多くの人が「子供の人身供犠」という恐ろしいイメージを思い浮かべるでしょう。古代ローマの記録によって広まったこの伝説は、長年にわたり歴史家たちを魅了してきました。しかし、考古学的証拠は本当にこの悪名高い慣行を裏付けているのでしょうか?今回は、カルタゴの最も物議を醸す側面を探り、神話と現実の境界線を明らかにしていきます。
恐怖の儀式:ローマ人が描いたカルタゴの姿

古代ローマの歴史家たちは、カルタゴ人が神バアル・ハモンとタニト女神に捧げる儀式として、自分たちの子どもを生贄として焼き殺していたと記録しています。ディオドロス・シクルスやプルタルコスといった著名な歴史家は、青銅の像の腕に子どもを置き、その腕が機械仕掛けで動いて子どもを炎の中に投げ込むという恐ろしい描写を残しています。
これらの記述によると、子どもたちの泣き声を消すために、太鼓や笛が大音量で鳴らされたといいます。また、子どもを差し出さない裕福な家族は、貧しい家庭から子どもを買い取って代わりに捧げることもあったとされています。
ローマ人にとって、この「野蛮な慣習」はカルタゴ人を「文明化されていない」敵として描く格好の材料となりました。しかし、敵対関係にあった文明の記録をどこまで信じるべきなのでしょうか?
「トフェト」の謎:考古学が明らかにした真実
カルタゴの「トフェト」と呼ばれる宗教的聖域からは、数千の壺が発見されています。これらの壺には焼かれた子どもの骨と灰が収められており、供犠の証拠だと長らく考えられてきました。壺の多くには「モルク」という言葉が刻まれており、これが人身供犠を意味する言葉だとされていました。
しかし、近年の研究は従来の解釈に疑問を投げかけています。2010年代の詳細な骨学的分析によると:
– 発見された骨の多くは胎児または新生児のものであり、幼児や子どもの骨は少数
– 骨の焼け方が供犠というよりは火葬に近い特徴を示している
– 「モルク」という言葉は供犠ではなく、特定の犠牲の形式を指す可能性が高い
オックスフォード大学の考古学者パトリシア・スミスは、「トフェトは主に死産児や早死にした乳児のための聖なる埋葬地だった可能性が高い」と主張しています。当時の高い乳児死亡率を考えると、この解釈はより合理的に思えます。
文化的偏見と歴史解釈の問題
カルタゴの人身供犠伝説は、「歴史は勝者によって書かれる」という格言の典型例かもしれません。ローマ人にとって、カルタゴ人を「子殺しの野蛮人」として描くことは、彼らとの戦争を正当化する手段となりました。
考古学者のサラ・ペルセウスは次のように述べています:「古代世界では、敵を『非人間的』に描くことは一般的な宣伝手法でした。カルタゴの場合、彼らが残した文書のほとんどがローマによって破壊されたため、自分たちの声で反論する機会がなかったのです」
また、聖書にも登場するカナン人の神モレクへの子供の供犠の記述が、カルタゴ人(フェニキア人の子孫)への偏見を強化した可能性も指摘されています。
現代に残る謎と継続する研究
現在、研究者たちの間では次のような見解が主流になりつつあります:
1. カルタゴでは限定的な状況(例:深刻な飢饉や疫病の時期)において人身供犠が行われた可能性はある
2. しかし、ローマの記録に描かれたような日常的な慣行ではなかった
3. トフェトの多くの遺骨は自然死した乳幼児のものである
チュニジアのカルタゴ遺跡では今も発掘調査が続いており、新たな証拠が発見される可能性があります。最新の科学技術(DNAテスト、安定同位体分析など)の進歩により、将来的にはより確かな答えが得られるかもしれません。

失われた都市カルタゴの真実は、古代の記録と現代の考古学的証拠の狭間に隠されています。人身供犠の伝説は、古代文明の複雑な宗教的慣行と、それを解釈する私たちの文化的バイアスの両方を映し出す鏡となっています。この幻の都市が私たちに教えてくれるのは、歴史的真実への道のりが、時に私たち自身の先入観という障壁によって阻まれることがあるという教訓なのかもしれません。
カルタゴの古代遺跡に秘められた謎:発見された地下都市と港湾施設
驚異の海洋都市:カルタゴの港湾システム
カルタゴの最も印象的な遺構のひとつが、その革新的な港湾施設です。紀元前2世紀に建設されたこの港は、当時の技術水準を遥かに超えた建築技術を誇っていました。考古学調査によって明らかになったのは、完全な円形の軍港と長方形の商業港からなる二重港システムで、これは古代地中海世界において他に類を見ない設計でした。
軍港は直径325メートルの完全な円形で、最大220隻の軍船を収容できたとされています。中央には円形の島があり、海軍司令部が置かれていました。特筆すべきは、この港が外部からは完全に見えない構造になっていた点です。これにより、カルタゴ艦隊の動きを敵に察知されることなく、戦略的な優位性を保っていたのです。
2016年の水中考古学調査では、港の底から出土した木材の分析により、カルタゴ人が船舶の保管と修理のための複雑なドック施設を持っていたことが判明しました。これらのドックには、船を乾かすための斜路や、船体修理のための専用作業場が備わっていました。
地下都市の発見:カルタゴの隠された生活空間
1990年代後半から2000年代初頭にかけて、フランスとチュニジアの合同考古学チームによる発掘で、カルタゴの丘の下に広がる広大な地下構造物が発見されました。これらは単なる貯蔵施設ではなく、都市の重要な機能を担う空間だったことが明らかになっています。
地下構造物の中でも特に注目すべきは、以下の施設です:
– トフェト(Tophet):宗教儀式のための聖域で、多くの骨壺が出土
– 地下水路システム:全長15kmに及ぶ精巧な給水・排水システム
– 地下穀物貯蔵庫:長期保存が可能な温度管理された巨大空間
– 避難用トンネル:有事の際に市民が避難するための通路網
2019年の調査では、最新のGPRスキャン技術(地中レーダー探査)を用いて、これまで知られていなかった地下構造が新たに発見されました。カルタゴの中心部から放射状に広がるトンネルネットワークは、古代都市の防衛と物流の両面で重要な役割を果たしていたと考えられています。
謎の儀式空間:トフェトの真実
カルタゴの遺跡で最も議論を呼ぶのが「トフェト」と呼ばれる宗教的空間です。ここからは数千の骨壺が出土し、その多くには子どもの遺骨が含まれていました。古代ローマの歴史家たちは、カルタゴ人が神バアル・ハモンへの生贄として子どもを犠牲にしていたと記録しています。
しかし、近年の科学的分析はこの伝説に疑問を投げかけています。オックスフォード大学の研究チームが2018年に発表した研究では、骨の炭素年代測定と同位体分析の結果、これらの遺骨の多くは死産児や生後間もなく自然死した乳児のものである可能性が高いことが示されました。
このトフェトの発見は、カルタゴ人の宗教的実践に関する我々の理解を根本から変える可能性を秘めています。彼らは残忍な儀式を行う野蛮人ではなく、亡くなった子どもたちのために特別な埋葬儀式を執り行っていた可能性が高まっているのです。
最新技術が明かす失われた都市の全貌
2020年以降、考古学者たちはドローンによる高精度空中写真測量と3Dスキャン技術を組み合わせ、カルタゴの都市構造の全体像を再構築する取り組みを進めています。この「カルタゴ・デジタル・プロジェクト」により、古代遺跡の95%以上が破壊されてしまった今でも、かつての都市の姿を仮想空間で体験できるようになりつつあります。
特に注目すべきは、これまで断片的にしか理解されていなかった都市計画の全体像が明らかになりつつある点です。カルタゴは単なる無秩序な都市ではなく、碁盤目状の計画的な街路配置を持ち、都市の中心部には広場(アゴラ)を配した、当時としては極めて先進的な都市設計が採用されていたことが判明しています。
また、2022年の発掘では、カルタゴの富裕層の住居区から、精巧なモザイク床や壁画が発見されました。これらの芸術作品は、カルタゴがローマに滅ぼされる直前の繁栄を物語るとともに、古代地中海世界における文化的交流の証拠として、研究者たちの間で大きな注目を集めています。

カルタゴの古代遺跡は今なお多くの謎に包まれていますが、最新の考古学技術と国際的な研究協力により、この「失われた都市」の実像が少しずつ明らかになりつつあるのです。
現代に蘇るカルタゴ文明:世界遺産となった失われた帝国の足跡
世界遺産としてのカルタゴ
1979年、かつて「失われた都市」と呼ばれたカルタゴは、ユネスコ世界遺産に登録されました。チュニジアの首都チュニスの郊外に位置するこの遺跡は、現在「カルタゴ考古遺跡」として保護され、年間約70万人の観光客が訪れる重要な歴史的観光地となっています。世界遺産としての登録は、この古代遺跡の歴史的・文化的価値が国際的に認められた証でもあります。
遺跡内には、ローマ時代の公衆浴場「アントニヌスの浴場」、カルタゴの軍港だった「プニックポート」、神殿跡、住居跡など、様々な時代の建造物が混在しています。特に「トフェット」と呼ばれる聖域は、幼児犠牲の伝説が残る場所として、多くの研究者の関心を集めてきました。
現代の発掘調査と新発見
21世紀に入ってからも、カルタゴでの考古学調査は継続して行われています。2016年には、国際的な考古学チームによって、かつての港湾施設の新たな部分が発見されました。最新の地中レーダー技術を用いた調査により、これまで知られていなかった建造物の基礎部分が地下に眠っていることが明らかになったのです。
また、2018年には水中考古学者たちによって、カルタゴ沖の海底から沈没した商船の残骸が発見されました。船内からは、オリーブオイルを運搬していたと思われる数百の陶製アンフォラ(古代の壺)が発掘され、カルタゴの貿易ネットワークの広がりを示す重要な証拠となりました。
カルタゴ文明の現代への影響
失われたはずのカルタゴ文明は、実は現代社会にも様々な形で影響を残しています。
言語と文字:カルタゴで使用されていたプニック語は現在では死語となりましたが、北アフリカのベルベル語に一部の語彙が残されています。また、フェニキア・プニック文字はラテン文字の原型となり、私たちが今日使用しているアルファベットの発展に貢献しました。
農業技術:カルタゴ人が編纂した「マゴの農業書」は、古代ローマにも影響を与えた農業マニュアルでした。彼らが開発した灌漑技術や乾燥地での農業方法は、地中海地域の農業発展の基礎となりました。
航海技術:カルタゴの船乗りたちは、地中海を越えて大西洋にまで航海していたと考えられています。彼らの航海術と造船技術は、後の海洋探検の発展に貢献しました。
カルタゴ遺跡の保存と課題
世界遺産となったカルタゴ遺跡ですが、保存に関する課題も少なくありません。気候変動による海面上昇は、海岸線に近い遺跡部分を脅かしています。また、チュニスの都市拡大による開発圧力も懸念材料です。
2010年以降、チュニジア政府と国際機関の協力により、「カルタゴ遺跡保全プロジェクト」が進められています。このプロジェクトでは、最新のデジタル技術を活用した遺跡のマッピングや、3Dスキャンによる記録保存が行われています。さらに、地元コミュニティと協力した持続可能な観光開発も推進されています。
デジタル技術で蘇るカルタゴの姿

現代技術の発展により、「幻の都市」カルタゴの姿を仮想的に再現する試みも進んでいます。2019年には、国際的な研究チームによる「バーチャル・カルタゴ・プロジェクト」が立ち上げられ、考古学的証拠に基づいた3Dモデルの構築が進められています。
このプロジェクトでは、発掘された建造物の基礎部分から、かつての建物の全容を科学的に推定し、仮想現実(VR)技術を用いて再現しています。訪問者は専用のVRゴーグルを装着することで、紀元前3世紀頃のカルタゴの街並みを「歩く」体験ができるようになりました。
古代遺跡とデジタル技術の融合は、考古学研究の新たな可能性を開くとともに、一般の人々が「古代遺跡」や「失われた都市」の魅力に触れる機会を広げています。かつてローマによって徹底的に破壊されたカルタゴですが、現代のテクノロジーによって、その壮大な姿が再び私たちの前に姿を現そうとしているのです。
カルタゴという「幻の都市」は、その栄光、悲劇的な滅亡、そして現代における再評価と保存の取り組みを通じて、私たちに歴史の重層性と文明の脆さを教えてくれます。遺跡から発掘される一つ一つの遺物は、2000年以上の時を超えて、かつてそこに存在した人々の声を私たちに届けているのです。
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